グローバルの第一歩は、異文化に対する理解・尊重の姿勢を持つこと
- 国際・公共政策大学院2年アーロン・コクボ・ディーンさん
(『HQ』2015年春号より)
母親の姿を通して感じた異国で生活する魅力
一橋大学国際・公共政策大学院(IPP)で研究に取り組んだ留学生、アーロン・コクボ・ディーンさんは、アメリカ・コロラド州で生まれ、幼少期以降をワイオミング州で過ごした。アメリカ人の父親と、日本人の母親を持つ彼は、アメリカ人として生活するうちに、母の母国である日本に強く惹かれていったという。ワシントン州のセントラルワシントン大学(CWU)の学部生だった2008年に、京都外国語大学で半年間の留学を経験し、その後いったんアメリカに帰国。そして2010年の夏に、日本の自治体が省庁・関係協会とともに実施した「語学指導等を行う外国青年招致事業」(JETプログラム)に参加し、英語の教師(外国語指導助手/ALT)として再び来日して1年間を京都の木津川市で過ごした。
「日本に初めてきたのは5歳のときで、当時のことはよく覚えています。それからは2年に一度のペースで、母の里帰りのタイミングで日本にきていましたが、日本語はそれほど得意ではなかったため、アメリカの大学で本格的に日本語を学ぶまでは、自分から祖父母に話しかけることができませんでした。そうしたもどかしさもあり、日本で学びたいと思うようになりました」
言葉の壁はあったものの、定期的に大阪の祖父母のもとを訪れるなかで、自然と日本に興味を持つようになり、高校生になる頃には日本で暮らすことに対する強いあこがれを抱くようになったという。
「やはり母の存在が大きかったですね。自分の母国ではないアメリカに渡って、英語を学びながら普通に生活する。それができる母はとても不思議な存在でしたし、しだいに魅力的だと感じるようになりました。そこから、日本に行きたいという気持ちが強くなっていきました」
ディーンさんにとって、日本にくることは異国の文化を学ぶ機会となることに加え、自分自身のルーツ探しができるという魅力もあったと振り返る。そして留学、ALTとしての訪日を経て、2011年、一橋大学の門をたたくことになる。
一橋大学での学生生活が変化させた懸け橋になるというゴールの形
CWUでディーンさんは日本語学とアジア太平洋学を主専攻に、副専攻として国際研究に取り組んだ。一橋大学へは、当初、社会学研究科の研究生として入学することになる。
「アメリカにいたときは、正直、一橋大学の存在を全くと言っていいほど知りませんでした。日本にきて、社会科学のトップクラスの大学ということを知り、また入学できることを母に報告すると、一橋大学で学べることに大変驚いていました。入学してみると厳しさを感じることも多かったのですが、それ以上に頑張りたいと思わせるものがこの大学にはありました。研究のレベルの高さはもちろん、先生方の熱心さもそうです。これほど1人の学生に時間をかけ、親身になってサポートしてくださることに驚くとともに、感謝しています」
ディーンさんは、研究生として1年半を過ごし、2013年4月からはIPPの大学院生として研究に取り組み始めた。研究テーマは移民に関する労働政策とした。研究生として来日した際に、日系ブラジル人の労働問題を取り上げた倉田良樹教授(社会学研究科)の授業を受講したことがきっかけになったと、ディーンさんは語る。
「日本には少子高齢化に伴う労働力不足という現実があって、労働力の確保という意味から日系ブラジル人の存在が浮き上がってきました。しかしそこにはさまざまな問題点が内包されています。日本人をルーツに持つ自分にはとても興味深いテーマでしたし、深く学びたいと思うようになりました」
日本語を学びアジア太平洋学を専攻するに至ったディーンさんの動機は、駐日アメリカ大使館員となって、両国の懸け橋になることだった。しかしIPPで学ぶうちに日本にとどまり自分の力を試したくなったという。医療機関を就職先に選択するうえで、障がい者サポートの仕事に従事する両親の存在が大きかった。
「医療の仕事は、これまで勉強してきたこととは少し異なりますが、とても興味のある分野です。小さい頃から、両親の影響で、手話でコミュニケーションを取る人たちと多く接してきた経験もありました。そのときに、誰かの助けになる仕事にも魅力を感じていたのです」
折しも就職先の医療機関は、東京オリンピックを控え、外国人患者への対応強化を考えていたのだそうだ。患者を助ける力となり、異なる文化的背景を持つ人々の懸け橋となる存在として、ディーンさんは大きなやりがいを感じたのだ。
アイデンティティに対する意識と自分のなかに見出す新しい発見
日本人の血を引き、アメリカ社会で育ったディーンさんが、日頃意識していたのが、自身の「アイデンティティ」だった。
「私が育ったワイオミング州は、アメリカのなかでも伝統的な習慣を持つ地域でした。学校では8割以上が白人の生徒であり、私は少なからず目立つ存在でした。そのなかで、自分の母親は違う国からきて、自分は異文化を知る存在なのだと自分のアイデンティティに誇りを持っていたのです」
日本にきてからは、反対にアメリカ人としての自分を意識することになったディーンさんは、日本とアメリカの両国で「自分は少しずつ違う」ということを実感している。そしてこのような体験が、新たなアイデンティティを築いていくことにつながるのだという。
「これは誰にでも当てはまることだと思いますが、生活するなかで周りの人から言われることが、自分のアイデンティティに影響を与えているのだと思います。私の場合は、アメリカで"日本人らしいところがあるよね"とか"お母さんが日本人なんでしょう?"と言われることでほかとは違う自分を意識しましたし、それが誇りにもなりました。日本にきたらアメリカ人としての自分を強く感じました。海外に出て異文化のなかに身を置くことは、楽しいことも辛いことも含めて、すべての経験が自分のアイデンティティの一部になります。それは、自分を深く理解するきっかけになると思うのです。その意味で私は、二つの国、文化を若いうちに経験できたことに感謝しています」
また、日本でALTを経験したディーンさんは、人に教えることで初めて自分の母語を客観視できたという。
「たとえば、アメリカでEnglishの授業を受けたときには、Passive voice(受動態)という概念があまりピンとこなかったのですが、日本語の"〜される"という表現を勉強したときに、ああこういうことなのかと改めて理解することができました。ほかにも"a"と"the"の違いなどもそうでした。自然に身についていることを、理論的に人に教えることは想像以上に難しい。"言葉"についても新しい発見がたくさんありました」
相手を尊重し、言葉の背景を理解しながらグローバルな人材へと成長する
アメリカ人と日本人の血を引き、アメリカで生まれ育ち、もう一つの母国である日本で青年期を過ごしたディーンさんが思う「グローバル」について聞いてみた。「これは非常に難しい質問ですが、私が考えるグローバルとは"まず他者を理解しようとする姿勢を持つこと"だと思っています。もちろん、すべてを理解して受け入れることはできないと思います。しかし興味を持って理解しようとすることで、相手を尊重しようという意識が生まれるのではないでしょうか。それは同時に、自分の価値観に気づくことにつながると思います。それがグローバルの第一歩なのではないでしょうか」
他者を理解する心や姿勢を育むのは、海外に出て異文化を経験せずともできることである。しかし、自国にいながらそうした感性を磨くことは容易ではないとディーンさんは言う。
「外国語を習得すれば、相手と情報を交換することはできます。しかし言語はあくまでもツールであって、大事なのはそのツールを使って何をし、何を話すかだと思います。なぜ海外の人は違う考え方をするのか、なぜ自分はそのように感じるのかということを、ツールを使いながら探ること、言葉の背景にある文化や習慣を理解しようとすること。グローバルとは、そういうことなのだと、私は思います」
最後に、事前に聞いていた話とは違うと、日本にきて驚いたことについて話してくれた。
日本人は、優しい?冷たい?厳しい?
「日本にくる前に私が持っていた日本人のイメージは、"厳しい"でした。それは母から聞いた話がもとになっています。特に学校に関しては、日本では生徒は必ず制服を着て、アメリカの学校のように長い夏休みもなく、しかも土曜日にも授業があると聞いていました。授業中に寝たり友だちと話したりすると先生に怒られ、親に連絡されることもあると母は自分の学生時代を振り返って話してくれました。そのため、ALTとして京都の中学校で英語を教えていたとき、生徒が授業中に寝ていても、ほとんどの先生がその場で何もしないことにとても驚きました。そのとき、学校での躾は、意外にもアメリカのほうが厳しいと思いました。その他、子どもの頃に母に教わったお箸の使い方やお茶碗の持ち方などの日本の食事マナーについても、皆ができているわけではありません。
また東京にきて驚いたのは、日本人は知らない人には挨拶をしないし、あまり笑顔を見せない。この話に対して母が『日本人は変わってしまったのか』と驚いていました。もっとも京都の地方に住んでいたときは、町の人は知り合いでなくても挨拶をしてくれましたし、話しかけてくれることも多く、心地よく暮らしていました。東京の方も一度知り合いになれば、皆さんとても優しいです。一方、先日アメリカに帰ったときに行ったカフェで、全く見ず知らずの人と目が合って笑顔で挨拶され、逆にちょっとびっくりした自分もいました(笑)」(談)