グローバルが当たり前の環境から日本にきて思う専攻の大切さと長期的なキャリアの考え方

  • 2013年社会学研究科修士課程修了クリチカ・ペトル氏

(『HQ』2015年冬号より)

チェコ語に翻訳された谷崎作品をきっかけに日本への興味を抱いた高校時代

クリチカ・ペトル氏

遠いヨーロッパの地、チェコ共和国に育ったクリチカ・ペトル氏が、初めて「日本」に触れたのは高校生だった17歳の頃。読書好きだったクリチカ氏は、自分が暮らす街にあった小さな図書館で、チェコ語に翻訳されたある日本の小説を見つけて読んだことから、日本への興味を持つようになったそうだ。
「その小説は谷崎潤一郎の『痴人の愛』でした。それを読んでからというもの、日本の小説が好きになり、ほかにもないかと夢中で探すようになりました。大江健三郎や川端康成などの小説も読みましたが、最終的には他の言語に翻訳されたものではなく、日本語で書かれたものを読んでみたいと思うようになり、そこから日本語を勉強し始めました」

チェコの高校の最終学年である4年生になる頃には、進学する大学では日本語を専攻したいと思うほどになったクリチカ氏。しかし、そのことを両親に相談した際には「もっと将来の役に立つものにしなさい」と反対されたという。
「親が言うことももっともだと思いましたので、進学先にはプラハ経済大学を選び、国際貿易を専攻しました。でもやはり日本語も学びたい、あきらめたくないという気持ちが残っていたので、経済大学入学から1年経ったタイミングで、プラハ・カレル大学の日本研究学科にも入学することにしたのです」

日本と違い、チェコでは国の政策で国立大学の学費が免除されるほか、同時に二つの大学に在籍してカリキュラムを履修することも個人の裁量に任されている。そのシステムを活用し、クリチカ氏は経済学の勉強と並行して日本語の勉強に取り組み始めた。大学1年生のときに初めて日本を訪れ、その翌年も夏休みを利用して再び訪日。そして22歳となった2007年、日本の文部科学省が実施する奨学金制度への申請を行い、交換留学生として金沢大学に入学することになった。
「金沢大学で1年間過ごすうちに、日本の大学院に進みたいという気持ちが出てきたのです。そこから、どの大学にどのような先生がいらっしゃるのかを調べ始めました。プラハ経済大学での研究のなかで経済史の面白さを感じていたので、その分野の研究者を探したところ、一橋大学経済学研究科の西成田豊教授の存在を知り、そこで学びたいと思うようになったのです」
クリチカ氏は、金沢から上京し一橋大学の西成田教授を訪問。入学の意向を伝えた後にいったんチェコに帰国し、現地の大学を卒業した2010年、再び文部科学省の奨学金制度に申請して一橋大学に入学することになった。

一橋大学で学ぶなかで感じた充実感と日本とチェコとの違い

クリチカ・ペトル氏

日本文学が好きになったことがきっかけとなって留学を果たしたクリチカ氏に、日本での大学生活において感じた驚き、チェコとの違いについて聞いてみた。
「日本語に関しては、ある程度の日常会話はできるようになっていたので不安はなかったですね。日本の文化についてもある程度のイメージがあったので、それほど驚くことはありませんでした。ただ、一橋大学に入って、大学院で学ぶ学生たちの本気度の高さを感じ、そこがチェコとは違うと思いました。チェコでは、"大学を卒業した"というのは修士号を取ったということを意味するのが一般的で、そういう意味では学士課程と修士課程であまりレベルが変わらないという印象なのです。そこが日本とチェコの大きな違いだと思います」

一般教養や専門分野の基礎的な部分を学士課程で学び、修士課程でより専門性を高めていくというイメージの日本の大学と違い、学部に入学した初日から専門的な勉強を始めるのがチェコの教育プログラムだ、とクリチカ氏は言う。そうした違いを実感しながら、自身も研究室に泊まり込んで研究に取り組んだり、ハードでありながら充実した最高の時間を過ごせたと語る。入学後、彼は西成田ゼミで経済史を学び、その後に社会学研究科の西野史子准教授のゼミで労働市場に関する研究に取り組むことになった。
「一橋大学に入学後、私は博士課程に進むことも考え始めました。もともと、日本の労働市場はなぜこんなに不思議な形で発展してきたのか、ということに興味があり、そのテーマを長いスパンで研究できる環境として西野ゼミを選択しました」

日本の労働市場の発展過程を"不思議"だと感じたクリチカ氏。その不思議さは、先に指摘した学士課程・修士課程への取り組み方の違いとも関係し、さらに言えば大学進学に臨む際の意識の違いにもつながっていることが、次のクリチカ氏の説明から読み取ることができる。

専攻を決めるまでのプロセスの違いと"就社"を目指す日本の学生たち

「チェコでは"どこの大学か"ではなく"何を専攻するか"ということがとても重要になります。また日本の受験勉強では、たとえば哲学を志す学生が数学を勉強する、物理学を専攻したい学生が現代国語を勉強するケースもあります。目指す学部にかかわらず、共通科目を勉強して臨むセンター試験というものもありますが、チェコではそういうものは一切なく、学部や専攻ごとの先生が入試科目を決めています。私自身も、プラハ経済大学の試験を受けた際の科目は、数学と第一・第二外国語でしたし、プラハ・カレル大学の日本研究学科では簡単な語学テストと、これまでに読んだ日本に関する書籍や今後何をしたいかを問う口頭試験という内容でした」

全体的な学力を問う日本と違い、その専攻を志す理由と到達レベルを重視するチェコの大学入試の内容を知ることで、教育に対する考えがまったく違うことがわかる。大学に入学してからのカリキュラムについても、日本では大学1〜2年生で学ぶことが一般的な一般教養の内容も、チェコでは4年制の高校在学中に学習し、学士課程の最初の年から専門分野の勉強を始めるという。つまり、高校時代に自身の目指すべき道や興味を持てる道を探し、大学入学後はすぐに本格的な研究をスタートさせるというのがチェコのスタイルなのである。
「チェコでは、割合多くの自由時間が高校生に与えられています。授業が13時ぐらいに終わった後は部活のようなものもありませんし、学校とは関係のない時間のなかで自分が興味のあることに取り組むことができるのです。この時間がなければ私が日本文学に出合うこともなかったでしょうし、専攻を決めるうえでとても重要だったと、私自身は思っています」

こうした"専攻重視"の姿勢は、大学受験だけではなく、学生たちが卒業後に就職する際にも共通している。チェコでは、日本の就職活動のようなものはなく、企業も一括採用ではなく職種別での採用を行う。その違いもクリチカ氏にとって"不思議"に感じられた点であり、日本の労働市場を研究するうえでの重要な要素となったということである。「厳密に言うと、日本では"就職"ではなく"就社"という意味合いが強いのではないでしょうか。職務と給与があまり関連していないという点も独特です。その事実は、社会における労働の形の一つのあり方であり、とても興味深いものとして私は感じました。そこから、なぜ日本の労働市場は欧米と違う形で、ある意味"不思議"な形で発展してきたのか、その歴史的な変遷を研究しようと思うようになったのです」

西野ゼミの仲間と

西野ゼミの仲間と

研究室で机に向かうクリチカ氏

研究室で

日本企業の実情を知るために修士課程修了後に就職

一橋大学入学当時は、帰国してチェコの日系企業で働く、あるいは通訳や翻訳など日本とチェコを結ぶような仕事でのキャリアパスをイメージしていたと語るクリチカ氏。その後、大学院で学ぶうちに博士課程も視野に入れ始めたということだが、実際にはクリチカ氏は日本企業に就職するという道を選んだ。現在は、三井物産株式会社で航空機のファイナンス事業に携わっている。
「当初は、将来的には自分の専門性のなかで一番楽しさを感じられるものを仕事にしたいという気持ちがありました。しかし、日本の労働市場や組織に関する研究をしているうちに、実際に日本企業で働きながら実情をこの目で見てみたいという気持ちになったのです」

商社で航空機に関連する仕事を選んだことについては、日本企業を中から見てみたいという目的に加え、小さい頃から飛行機好きだったからという動機を明かしてくれた。「一石二鳥だと思いました」と笑うが、専門性を基にした職種別採用を行うヨーロッパでは不可能な選択だったとも語ってくれた。「自分の職務範囲や責任範囲に関する明確さ、仕事とプライベートな時間の区切りについて、ヨーロッパの企業との違いを感じます。日本企業のほうが"ウェット"だと言い換えることもできますが、とにかくさまざまな人と接して会話するうちに、どこで誰が何をやっているかが大体理解できるのも大きな違いです。そのウェットさは、日本企業が持つ良い部分だと思いますね」

また、入社の年次によって社内での立場が決まる点や、ホスピタリティという範囲を超えた"気遣い"に違和感があったと語るが、今ではその違いにも面白味を感じているという。
「ほかの国の企業とは違う原理で動いているにもかかわらず、完結した組織や制度が確立されていることに、最初は驚かされました。航空会社でも、まったく違うプロセスで業務を進めながら、最終的には同じサービス、アウトプットを提供しているという点に、私自身は興味を感じています」

そうした日本企業の組織体制や制度は、グローバルスタンダードとは言えないのかもしれない。しかし、その独特な様式のなかで発展を続けた日本社会や労働市場というものは、研究者としてのクリチカ氏の興味を惹き付ける対象となり、日本企業で働くなかで得られる面白さにつながっているのかもしれない。

研究室仲間とのダイビングに行った時の写真

研究室仲間とのダイビング

学位記授与式(修了式)

学位記授与式(修了式)

長期的に自身の立ち位置を考えること、そして覚悟を決めて行動することが大切

クリチカ・ペトル氏

日本企業での仕事を経験し、現在どのようなキャリアプランを持っているのだろうか。その問いに対し、クリチカ氏は10年後、20年後の自分の姿に具体的なイメージはないものの、選択肢はいくらでもあるはずだと答えてくれた。
「将来的には、母国であるチェコのために何かできればいいなという気持ちはありますが、それは必ずしもチェコにいなければならないということではありません。どこにいても、自分が楽しいと思える仕事ができればいいと思っています」

クリチカ氏は、子どもの頃から父親の仕事の関係でさまざまな国で生活してきた。そんな彼がグローバル社会で生き抜くことについて、「大事なのは覚悟できるかどうかだと思うのです。海外での経験がない人でも、海外にチャンスを求めると決めたら、覚悟を決めてとにかく行動することで、さまざまな選択肢が出てくるはずです」と語り、会話を終えた。(談)

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