自分と向き合える時間が、私の心を鍛えてくれた

  • 商学研究科5年一貫修士課程バータルホ ホス・エルディンさん

(『HQ』2013年秋号より)

日本は、憧れの国だった

バータルホ ホス・エルディンさん

モンゴルの学生にとって、留学は憧れであり、絶対にチャレンジしたい目標の一つです。学部生から5〜7人、高専生から14〜15人と、国費留学の枠はとても狭いのですが、留学を目指すほとんどの学生が高校時代から準備に入ります。しかし私が留学を意識したのは特に早く、子どもの頃から日本に行こうと決めていました。これには、二つの経験が大きくかかわっています。
一つは、祖母がよく語ってくれた曽祖母の体験を聞いたことです。若い頃に看護師だった曽祖母は、第二次世界大戦中のノモンハン事件の際に、モンゴル国境で負傷した日本人兵士たちを看病していました。そして、日本人が素直で誠実であること、努力家であること、時間をよく守ることなどに深い感銘を受けたといいます。このことを私は、幼い頃から何度も聞きましたし、祖母は私に「日本人みたいに素直で、頑張り屋で、時間を守る人になるのだよ」とよく言い聞かせました。その影響で子どもだった私のなかに、日本人への尊敬と憧れのような思いが自然に育っていったのだと思います。
もう一つは、大学の教員だった母が九州大学に留学するのに伴い、日本にきたことです。モンゴルが社会主義体制から資本主義体制に移行した直後のポスト移行期を経験し、物が不足するなかで衣服も兄からのお下がりという環境で育った私にとって、1998年当時の日本はまるで別世界でした。自動ドアやエスカレーターも初体験なら、テレビで見ていた「おしん」の世界とも違う先進国・日本に目が開かれた思いがしました。
幼い頃から負けず嫌いな気質が強い私は、小学校に入ってから日本の子どもに負けたくないと、1日8時間、必死に漢字の勉強をしました。今思えば、その当時指にできたペンだこは、いつか日本に戻ってこようと心に誓った私にとって、決心の強さを示す証のようなものだったのだと思います。

留学の目的は「学ぶ」ため

曾祖母とのツーショット

日本に関心を持ち、日本人に憧れるきっかけとなった曽祖母との貴重なツーショット

新モンゴル高等学校での、卒業式の記念写真

新モンゴル高等学校での、卒業式の記念写真

6年前に来日した際に、最初の1年間を送った東京外国語大学でのクラスの仲間と先生とともに。この日は、民族舞踊を披露した

6年前に来日した際に、最初の1年間を送った東京外国語大学でのクラスの仲間と先生とともに。この日は、民族舞踊を披露した

2007年、日本留学の夢を実らせたとき、私はウランバートルの金融経済大学の学生でした。来日して初めて受けたプログラムは、東京外国語大学で世界60か国の学生と一緒に、1年間日本語と教養科目を学ぶことでした。世界の縮図とも言えるような環境のなかに身を置き、たくさんの人と出会い、友だちとなったことは私の人生の宝物です。当プログラムを終了した後に入学する大学は、この1年間の間に行われる選抜試験の成績によって決まる仕組みになっていました。実は、私の当初の第一志望は東京大学でした。その理由は、日本の大学の最高峰と言われる大学に入って最高峰の教育を受けたいという誰もが考えるような単純なものです。しかし、最終的に入学を決めたのは、一橋大学でした。最初に一橋大学をすすめてくれたのは、当時の指導教官でした。将来自分でビジネスを起こしたいという私の希望を知り、それなら一橋大学がいい、経営学だけでなく、マーケティングや会計学、金融など商学全般に関して幅広く、そして何よりも自由に学べる大学だからとアドバイスしてくれました。指導教官のアドバイスを受けて、幼い頃にお世話になった日本人の知人にも一橋大学について聞き、アドバイスをいただきました。そうやって悩んだ末に一橋大学に決めたわけですが、大学決定の報告を父にすると「東京にある大学なんだし、きっと大丈夫だよ」と言われてしまいました(笑)。父がこのように慰めるのも無理はありません。一橋大学はモンゴルではあまり知られていなかったのです。
悩んだ末に決めたものの、正直に言って不安でした。しかし、そのもやもやした気持ちも金融学の最初の講義で消えてなくなりました。講義のレベルの高さに圧倒されたからです。ただショックだったのは、講義中に寝ているように見える学生がいたことでした。初めは、何てもったいないことをするのだろうと思いましたが、彼らはさぼっていたわけでも、眠っていたわけでもありませんでした。その日の授業内容についてはすでに予習済み。自分の理解が正しいのか否か、いわば休息しながら確認していたのです。このような学生の意識の高さには、驚かされると同時に強い刺激を受けました。
それから私は、一橋大学に入学したことを幸運に思うようになりました。優秀な教師の下で質の高い教育を受け、意識の高い学生たちに追いつき、追い越そうと頑張っていればきっと優秀な人材になれるだろう││このような希望がはっきりと見えたからです。そのための努力は惜しまなかったと自負しています。その結果、大学長から三度表彰されました。しかし、その学びのプロセスのなかで、つねに他人と自分を比べ、彼らに負けないようにと思っていた私は、真に比べるべき相手は自分自身であり、自分自身に勝ったとき、本当の意味で成長できるのだということに気づきました。日本人の学生や留学生のなかには、大学にいるうちに、あるいは、日本にいるうちに遊んでおこうと考える人がいます。日本人学生からすれば就職すると遊ぶ機会がグンと減るし、留学生からすれば日本にいる期間が限られているので、そのように考えるのも無理はありません。しかし、私に限らず、留学生のなかにはそうは考えない人もいます。留学するからにはしっかり勉強して、たくさんのことを学んで、優秀な人材となって国の発展に貢献しようと考える人が多くいます。とはいえ、大学生になることや留学することには、人それぞれの目的や意味があると思いますし、そうであることが自然です。重要なのは、何を目的とするか、何を得たいかを考え、それに向けて努力を重ねることだと私は思っています。

日本人には、見えないバリアがある

勉強のかたわら、私は1年生のときから引っ越しや工場の夜勤など、不定期のバイトを積極的に始めました。学校で勉強だけをしていてはわからないような日本社会のさまざまな側面にふれ、学ぶことができました。そのような意味では、とても充実した留学生活を送ることができていました。ただ、日々の生活のなかで物足りなさも感じていました。留学生同士だとすぐに打ち解けて友だちになれるのに、日本人学生とは簡単に友だちになることができなかったからです。当時、日本人には目に見えないバリアのようなものがあると感じていました。もちろん日本人学生とは挨拶や日常会話はしますし、彼らは遊びにも誘ってくれます。でも、一緒に騒いで距離が縮まった気になっても、翌日にはもとの距離感に戻ってしまうのです。日本人の持つ一種の照れのようなものかもしれませんが、外国人にとっては戸惑いや違和感が残ってしまいます。もちろん、今では日本人の友だちも多いですし、親友もできました。今思えば、私が感じたバリアのようなものは、日本人の一種の照れくささのあらわれであると同時に、相手に対する配慮でもあったと思います。ただ、外国人が日本人と親しい友だちになるには、時間と自分から溶け込む努力が特に必要だと思います。少しずつ少しずつ距離を縮めていくことが親しい関係を築くうえで重要であると、自分の体験から感じています。

三隈ゼミ集合写真

学部時代も現在も所属している三隅ゼミ
(三隅教授、ゼミの仲間とともに)

学業優秀賞を受賞した際に、親友(左)と後輩2人(左から2番目・右)と記念撮影

学業優秀賞を受賞した際に、親友(左)と後輩2人(左から2番目・右)と記念撮影

学部卒業の記念に両親を招いた。両親、兄、兄嫁とともに

学部卒業の記念に両親を招いた。両親、兄、兄嫁とともに

「人を思いやる心」を、モンゴルに持ち帰りたい

日本にきて6年目、日本への留学は、私にさまざまな変化をもたらしました。なかでも一番大きいのは、よく考えるようになったということです。私はもともと直情径行型で、後先を考えずにとにかくやってみようというタイプでした。それが、日本で学び、生活するなかでしっかり考える習慣が身についていきました。
きっかけは、1年生の7月。ある日ふと気づくと、自分の意識のなかでは大したことは何もしていないのに、いつの間にか3か月が経っていました。この間自分はいったい何をしていたのだろう、これではだめだと強く思いました。そこで毎週土曜日に、今自分は目標への道のりのどの地点にいるのか、周りの人に対して何をなし得たのか、今の自分に足りないものは何か、と考える時間を設けることにしました。これは、とても大きな収穫でした。自分を見つめ、考える時間を持ったことが、何より自分を成長させてくれたのだと思っています。
日本への留学で得たもう一つの収穫は、周りのことを考え、周りを優先するように心がけるようになったことです。相手を気遣い、相手のことを考えながら行動することの大切さを、今もなお私は日本人から学んでいます。このような日本人の気質は、個人主義が比較的強いモンゴル人にはない、素晴らしい美点だと思っています。ぜひ、しっかり吸収してモンゴルに持ち帰りたいと思っています。
かつてはビジネスを起こすことであった私の目標も、留学を経て変化しました。今私が目標としているのは、ノーベル平和賞を受賞したバングラデシュの経済学者であり、貧困層を救うための銀行を創設したモハマド・ユヌス氏が提唱した「ソーシャル・ビジネス」をモンゴルで成功させること。適正な利益を出しながら究極の目的である社会問題の解決に貢献するという考え方に共感し、可能性を感じるからです。
目標を実現するためのステップとして、私は来春、日本で投資銀行に就職します。そこで一人前の投資銀行マンとしての実力と経験を身につけ、育ててもらった以上の成果を銀行に残すことができたら、母国モンゴルへ戻るつもりです。そして、投資銀行で得た経験を活かして企業の成長のお手伝いをしながら自分自身のソーシャル・ビジネスも立ち上げたいと考えています。
この目標を実現するには、10年、20年あるいはそれ以上かかるかもしれません。でも、私は目標に向かって突き進むつもりです。モンゴルでは今、日本に留学した第一世代が社会の中堅として力を発揮しつつあります。彼らの努力で社会インフラも徐々に整っていくはずです。モンゴルに帰国したら、先輩たちと協力して祖国の発展に貢献したいと思っています。

富士山登頂達成時に頂上にて記念写真

2013年7月に、モンゴル人の仲間とともに念願の富士山登頂を達成。頂上にて

祖父母とともに

宝物の地球儀をくれた祖母と、医者の道ではなく家族のために生きてほしいと言ってくれた祖父とともに

国を超え、世界を考えられる人になろう!

私は、留学とは自分と向き合う機会だと考えています。異文化のなかで自分を客観的に見つめ、しっかり考えることが、自分を育てることができる最大の機会であると実感しています。
今私はボランティアで、日本の子どもたちの異文化への理解をサポートする活動を行っています。毎回の講義の最後の10分間で、私は子どもたちに、モンゴルから持参し、いつも机に置いてある地球儀を見せます。この地球儀は、若い頃医師だった祖母が、私が日本に行くことが決まったときに贈ってくれたもの。国を超えて、世界を考えることができる人間になりなさいという祖母のメッセージが込められた、私の宝物です。子どもたちにこの地球儀を見せながら、私も含めて「皆で一緒に世界全体を考えることのできる人になっていこう」という約束を交わしています。(談)

ENVIRONMENT

学びの環境