東キャンパスにおける東本館の改修に寄せて
2022年7月1日 掲載
国立での第一歩は、専門部・養成所から始まった
「佐野学長を中心とする学園都市建設の理想にもえての移転であったことは勿論である。昭和2年堀光亀先生のパイオニア精神によって専門部が先ず移った」
これは一橋大学の前身である東京高等商業学校を卒業し、後に商学部長を務めた山口茂氏が、回想録*に書き残した一文である。
「佐野学長」とは、東京高等商業学校の校長を務め、東京商科大学の学長として国立への移転を指揮した佐野善作氏のこと。「堀光亀先生」とは、商業大学必要論を唱え、大学昇格後の東京商科大学で教鞭をとり、佐野氏の参謀としても活躍した堀光亀氏を指している。
この一文の前後には、1923年(大正12年)の関東大震災から国立への移転までが綴られているのだが、注目すべきは「専門部が先ず移った」という記述だ。移転先は、現在の東キャンパスである。1927年(昭和2年)4月から専門部及び養成所という2つの教育機関の授業がスタートしている。
「商業・商品学を教える専門部、商業学校の教員を育成する養成所の移転がなぜ最初に行われたのか、その理由は分かっていない。『堀光亀先生のパイオニア精神』が移転にどのように昇華されたのかも、現時点では判然としない。しかし、"Captains of Industry"という建学理念を掲げる一橋大学が、新しい拠点・国立での第一歩を専門部・養成所から始めたことは、大変興味深い事実である。」
今春、移転から95年を経て東キャンパス・東本館の大規模改修が行われた。この機会に、東キャンパス移転の歴史を、国立の学園都市構想と連動させながら紐解くべく、長年にわたり「一橋大学の歴史」の講義を担当してきた大月教授(理事・副学長)に話を伺った。
関東大震災をきっかけに、郊外移転が喫緊の課題となる
1920年(大正9年)4月、東京高等商業学校が大学昇格を果たして東京商科大学となった際、神田一ツ橋の学内は本科/予科/専門部・養成所という編成になった。その後、1923年(大正12年)5月、石神井にグラウンド用地を購入した。まもなく前述のように同年9月に関東大震災が発生し、キャンパスのあった神田一帯は灰燼に帰してしまったため、郊外移転は喫緊の課題となった。
1924年(大正13年)4月に予科が石神井に移る。同年10月に国立への移転仮契約を箱根土地(現・プリンスホテル)と締結するが、箱根土地との開発については後述する。1925年(大正14年)9月には文部省(現・文部科学省)及び大蔵省(現・財務省)から国立への移転が正式に認可された。なお、移転先の名称が正式に「国立」に決まったのは同年11月のことである。
翌1926年(大正15年)11月には、文部省が箱根土地による専門部・養成所の校舎および寄宿舎寄付を認可。この寄付が行われたのは、専門部・養成所の学生の移転が危ぶまれたことが背景にある。建物の竣工が間に合わないとの予測から、一部の学生を神田に残す計画があった。しかし「移転をするなら全員で」という学生の強い希望により、急きょキャパシティを広げるために箱根土地から木造仮校舎の寄付を受けたのである。その翌週には、専門部・養成所の次年度からの授業を国立で行うことが発表された。
明けて1927年(昭和2年)3月25日に専門部仮校舎が竣工、4月15日に授業が開始された。当時、現在の西キャンパスにあたる区画はまだ整備中で、兼松記念講堂が竣工したのは同年8月31日、西本館の竣工に至っては1930年(昭和5年)まで待たねばならない。専門部・養成所の移転はまさに先駆けだったのである。
商業に直結した商品陳列室、中世ヨーロッパの大学の立ち位置を想起させる時計塔
東本館が現在の形になるのは、1929年(昭和4年)の鉄筋化を経た1931年(昭和6年)のこと。
2階には100名を収容する大講義室を設置。北側1階及び地下空間には、商品学を学ぶための商品実験室が設けられた。「買付で商品の質を手触りで見極めるために」との目的で、豪州貿易兼松房治郎商店(現・兼松)からオーストラリア産の羊毛が寄付されたという。また、学生に生物や化学の知見を授けるため、東本館には動物の飼育エリアや実験室なども設けられていた。
外観で特筆すべきは、本館西側の時計塔である。中世ヨーロッパにおける大学は修道僧の養成所であり、学業の時を刻む目的から必ず塔の上に時計が設けられていた。そして決まった時間に鐘を鳴らしていたことが次第に市民の生活にも浸透し、時間の経過を意識する生活様式へと変容していったのだ。東本館の時計塔も、道行く市民に時を告げる目的から設置されたそうだ。
東キャンパスへの移転に伴い、国立学園都市構想が動き出す
専門部・養成所の移転は、国立学園都市構想を具現化する第一歩でもあった。
1924年(大正13年)10月に国立への移転仮契約を箱根土地と締結後、翌1925年(大正14年)4月には鉄道省に新駅設置を請願。1年後に国立駅が開業する。佐野善作氏は東京商科大学の移転に伴い、国立を初等から高等までの教育機関をそろえ、周りを高級住宅街で取り囲むという「国立大学町」構想を持っていた。その事業を請け負った箱根土地の創業者・堤康次郎にも、「学生たちにはもっと風紀のいい新しい土地で勉強させるべきだ」との思いがあった。2人は共通のビジョンを持っていたのである。
佐野氏は約7万坪の購入を決断。一方の堤氏は社員をオックスフォードやケンブリッジ等に派遣し、都市計画の作成にあたらせた。駅前にロータリーを設け、自動車が信号で停止することなく、放射状に延びた道路に吸い込まれていく...という流れをつくったのは、箱根土地である。1925年には国立学園小学校、東京高等音楽学院(1926年(大正15年)11月竣工 ※現・国立音楽大学)と、2人の構想は徐々に具現化されていく。かつては谷保村の人々にとって、燃料用の薪を得るための里山だったこの地は、このようにして国内外から高く評価される瀟洒な大学都市へと生まれ変わったのである。
創立150周年に向け、95年ぶりに生まれ変わった東本館が語りかけること
そして東本館竣工から95年が経過した2022年(令和4年)3月、大規模改修を終え、新しい東本館がその姿を現した。時計塔の大時計は兼松からの寄付とシチズン時計の技術によって、内部には最先端の機能を備えながらも、外観は完全に復元された。それだけではない。「道行く市民に時を告げる」という本来の役割を甦らせるため、塔と大学通りの間の植栽を刈り込み、通りから時計が見通せるようになった。
一橋大学は2025年に創立150周年を迎える。専門部・養成所の移転が国立キャンパス、ひいては国立という町を切り拓く先駆けとなった。150年におよぶ歴史の再検証を通して、一橋大学の歴史のピースがまた一つ埋まるだろう。
*「國立の今昔 町を侵す楢太人たち:学園都市の建設に向かつて」『一橋新聞』第454号(1951年5月30日 2面)