フォトエッセイ
法学研究科教授 秋山信将
2021年7月9日 掲載
一昨年の秋のことだ。
欧州の研究仲間との電話会議が長引いて、研究室を出たのは夜の9時過ぎだった。10月の終わりにもなると、キャンパスを渡る風も肌寒さを感じさせる。兼松講堂の前を通りかかると、こんな遅い時間にもかかわらず電気が灯り、中からさざめきが聞こえてくる。そうだ、もうすぐ一橋祭(いっきょうさい)なのだと気が付き、赤い揃いの法被を着て準備に没頭する委員のことを思った。学生を預かる側からすれば、これくらいゼミの勉強にもエネルギーを費やしてくれればいいのに、と思わないでもなかったが、仲間と何かに打ち込んだ経験は、きっと大人になった時の大きな財産になるだろう...そんな思いにとらわれながら、灯りが残る兼松講堂を通り過ぎた。
講義やゼミナールにしても、一橋祭のようなイベントやサークル活動にしても、それらを通じ学生は議論や意見を交わし、時には共感し、また時には反発し、そうして得た思いを自らの糧として熟成させていく。そんな心の化学変化は、仲間たちと同じ時間、同じ空間を共有するなかで交わす他愛のない一言やまなざしという触媒が大きな役割を果たす場合も少なくない、と思う。
ところで、大学(=university)という言葉は、「組合(あるいはギルド)」を意味するウニベルシタス(universitas)というラテン語に由来する。11~12世紀のヨーロッパで学びを志す学生が組合を作り、教師を雇用したことがその起源になったという。そして、学校(school)という言葉は、そもそも「余暇」を意味するギリシャ語のスコーレ(skhole)に遡るという。古代ギリシャで、そしてまた中世ヨーロッパでも、贅沢な時間を持てる者が集まり、教養を深め、社会の発展に寄与するような思索や議論がその集まりから生まれた。
現在の大学は、もちろんかつて揶揄されたような「レジャー(余暇)ランド」などでは決してない。とはいえ、学生や教員が集まって切磋琢磨し、教養だけではなく人としての素養も、時間と空間を共有した交流の中から獲得していく、そんな贅沢な時間の使い方が許される場であることに違いはない。そこには、情報として、あるいはスキルとしての「知」を得る以上の価値がある。
そして今、アメリカとのZoom会議を終え、灯りの消えた人の気配のない兼松講堂の前を歩きながら、いつかこのコロナ禍が収束し、大学がそんな「school」としての本当の姿に戻ることを、そしてその暁にはいっそうアップグレードした大学になるだろうことを願った。兼松の上には古来より道を示す北辰(北極星)が輝いていた。