『五味版』ベトナム語辞典の存在感

  • 一橋大学名誉教授・特任教授五味政信氏

(『HQ』2018年春号より)

実売部数2500、電子辞書にも採用された『【五味版】学習者用ベトナム語辞典』

五味政信名誉教授

五味政信名誉教授

2015年1月に出版された『【五味版】学習者用ベトナム語辞典』(武蔵野大学出版会※以下・五味版)が、話題を集めている。見出し語約8000、例文約1万400、句例約1万600と、用例重視の辞書であることが大きな特徴だ(全1144頁)。
著者は一橋大学国際教育センター名誉教授・特任教授の五味政信氏。五味教授は実に17年もの歳月をかけ、1人でこの辞典を執筆している。出版から3年が経過し、実売部数は2500部にのぼるという。東南アジア諸言語の辞書としては異例の数字だ。

「武蔵野大学出版会が辞典の出版を決断した2005年当時は、まだベトナムに進出する日系企業も現在ほどではない状況でした。その中で、紙質や辞書製本の面でコストがかかる辞典を出版することは、出版社にとって大きなリスクがありました。しかし3年経って損益分岐点が見えてきたようで、ホッとしています」
紙媒体だけではなく、この『五味版』はカシオの電子辞書にも搭載されるという。現在は、ベトナム語の文字入力・検索面で今後さらなるバージョンアップを図るべく、ベトナム人の日本語学習者が現地で試行運用中で、年内に販売が拡大展開される予定とのことだ。日本・ベトナム両国にとって重要な存在になりつつあるこの『五味版』。執筆の経緯や今後の展開について、五味教授に伺った。

ベトナム人が気づいていないベトナム語の規則性を記述して伝える

ベトナムの川辺

改めて『五味版』のコンテンツを見てみよう。何といっても最大の特徴は、前述の通り例文約1万400、句例約1万600という用例重視のつくりだ。「学習者が必要とする情報に徹底してこだわった結果」で、例文についてはほとんどがオリジナルである。後述するが、ここには自身がベトナム語を学んできた経験と、日本語の教師として学生にとって分かりやすい例文を模索しつづけた訓練が活かされている、と五味教授は語る。
なお、試行錯誤してつくり上げた例文はくり返し複数名のネイティヴのチェックを受けている。日本人、ベトナム人両者が共有できる普遍的な内容を例文で表現したい。そんな五味教授のこだわりがにじみ出るプロセスだ。現地のベトナム語の辞書でも説明されていない記述の例としては「子ども」を表す言葉に関する語釈だ。ベトナム語で「子ども」に該当する言葉は少なくとも5個、広く数えれば10個ほどもあるそうだ。

「用例を集めて分類すると、特定の子どもを指す場合、不特定多数の子どもを指す場合、不特定多数の子どもを父母との関係の中で指す場合......など、言葉の背景にある規則性が見えてきました。ベトナム人ですら気づいていない規則性を記述して伝えるという点に力を入れました。ある部分は成功しているのではないかと思います」

日本のビジネスパーソンとベトナム人双方のニーズが結びついた?

五味政信名誉教授取材中の様子

そして冒頭でふれた2500部という実売部数(2018年1月時点)。五味教授によれば、日本でベトナム語の学科(相当)を持つ大学は3大学のみで、ベトナム語の授業を行っている大学も一橋大学を含め多くはない。ベトナム語を学ぶ学生数はすべて合わせても数百名程度で、2500部には遠く及ばない。
では誰が購入しているのか。五味教授は2種類のニーズが結びついたものと分析している。一つは、日本からベトナムに長期出張または駐在するビジネスパーソンだ。現在、ホーチミンとハノイには、数万人もの日系企業の社員及びその家族、教育機関の教職員、国際機関の職員が暮らしている。今後も経済交流が見込まれる中、ベトナム語を学ぶ必要に迫られたビジネスパーソンらが『五味版』に興味を持ち、レジに並んだ可能性は高い。
もう一つのニーズは、留学などで日本に来たベトナム人が、母語を日本語で表現する時に使う、いわゆる「逆引き」のニーズだ。これも後述するが、ベトナム人留学生は近年急増中で、1位の中国に迫る勢いで伸びている。このような2種類のニーズが実売を押し上げた結果、1144頁もの大著でありながら、豊富な用例、コラム記事などによって「読んで楽しい辞典」という評判につながっていると考えられる。

一橋大学の「ベトナム語入門」で学生から受けた質問が執筆のきっかけに

ベトナム中部ダナン市の知人宅にて

『五味版』が生まれたきっかけは、一橋大学で「ベトナム語入門」という授業を担当したことにある。五味教授は1996年10月に一橋大学に赴任。翌1997年4月から同授業を始めた。その際、学生から「ベトナム語の辞典はありますか?」と質問され、返答に窮したと振り返る。「日本で最も古いベトナム語辞典は1964年に出版されています。その後1980年、1986年と新しい辞書が出版されてきましたが、特に前者は単語リストのような内容でした。後者には用例も掲載されていますが、より日常生活のレベルで使用される語句の塊や会話例が乏しく、なかなか学生には薦められませんでした。何より私自身が、類義語の説明や言葉の使い方が載っている『辞書が欲しい』と思っていました」

語学教育には、教科書・辞書・文法書という「三種の神器」が必要となる。辞書の不在を解消し、ベトナム語教育の基礎を築くため、五味教授は少しずつ辞書執筆の作業を始めた。
「自分用に基本動詞の辞書をつくりたくて、個人的に書き留めていた素材がありました。この素材を使って、『基本動詞500』のような辞書がつくれたらいいなと思い、少しずつ原稿にまとめていったのです」

独自の分類を編み出した気概と自分で責任をとる意味をこめて『五味版』と命名

特に出版のあてもなく原稿にまとめていた時、武蔵野大学出版会の素晴しい編集者と出会う。2006年のことだ。当初、五味教授はベトナム語をある程度習得している学習者をターゲットに『動詞辞典』の出版を考えていた。内容の豊かさを高く評価してくれた編集者から「総合的な辞書にしては」というアドバイスを受け、用例・句例がふんだんに盛りこまれた、学習者に寄り添う辞書づくりへとシフト。日本語教師としての経験を活かしながらオリジナルの例文をつくり、ネイティヴのチェックを受け、何年にもわたって言葉と格闘しつづけた。「『分からない』と愚痴をこぼす私に、『先生、分からなくて当然ですよ、ネイティヴが分かってないんですから』と励まされ、日本人だから書ける辞書を、と力を入れ直したこともありました。『格闘』とはいっても、それはいつしか生活の一部となり、なくてはならない生活の楽しみともなりました。辞書づくりとの相性が良かったのかもしれません」と五味教授は語る。
「先ほどふれた『子ども』のように、自分が編み出した分類は現地にありません。そんな独自の分類を編み出したという気概と、自分で責任をとるという意味をこめて『五味版』と名付けました」
なお、『五味版』が出版される前の2011年の段階で、『五味版』は5番目の辞書となる。2017年にも初級者用と銘打ち、例文が盛りこまれた辞書が出版された。
「ベトナム語学習者にとっての環境は改善されてきているといえます。これからは、ベトナム語を学びたい日本人、逆引きで日本でのコミュニケーションを充実させたいベトナム人、双方のニーズがさらに高まってほしいと期待しています」

手ごわいけれど、あたたかく、しなやかそんなベトナム人との関係が40年間つづいている

ここで五味教授の経歴をひもといてみよう。1952年に東京で生まれた五味教授は、1972年、東京外国語大学外国語学部インドシナ語学科に入学する。自身は別の大学への入学を希望していたが、両親・兄弟の説得によって「やむをえず外語大に入学しました(苦笑)」。あまり深い動機づけがないままベトナム語を学ぶ中で、2年次の終わり頃、ハノイ総ここで五味教授の経歴をひもといてみよう。1952年に東京で生まれた五味教授は、1972年、東京外国語大学外国語学部インドシナ語学科に入学する。自身は別の大学への入学を希望していたが、両親・兄弟の説得によって「やむをえず外語大に入学しました(苦笑)」。あまり深い動機づけがないままベトナム語を学ぶ中で、2年次の終わり頃、ハノイ総合大学から招聘されたグエン・カオ・ダム教授と出会い、その人柄にほれこむことになる。研究室や自宅におしかけ、半分書生のような形で行動をともにしたそうだ。教授を通してさまざまなベトナム人との接点が増え、ベトナムという国に興味を持つようになった。大学を卒業してからは、1979年~1981年まで日本語教師としてハノイに滞在。帰国後、1983年に東京外国語大学の日本語教師に就任する。10年の教師生活を経て1993年に東京工業大学に移ると、数学の歴史があり、伝統的に理工系に強いベトナムの留学生と交流。そして1996年、一橋大学に移ってきた。
「彼らは交渉では勝てそうもない手ごわい人たちですが、懐に入るととてもあたたかく、しなやかです。そんなベトナム人の魅力のおかげで、40年以上も関係がつづいています」

漢語由来、孤立語......日本人にとってベトナム語は入っていきやすい要素が多い

五味教授が東京外国語大学に在学中の1973年、日本とベトナムは外交関係を樹立した。2018年は外交関係樹立45周年という記念すべき年となる。経済、文化など各方面での人的交流はさらに増していくことが予想されている。すでにベトナムの主要都市には日系企業が多数進出し、数万人もの社員・家族が暮らしていることは前述の通りだ。
五味教授によれば、ある大手商社はベトナム語によるビジネスを進めるため、駐在する社員に対し、派遣の前後合わせて1年半もの研修期間を設けているそうだ。ベトナム語を学ぶニーズの裾野は、これからも広がっていくだろう。
「日本人にとって、ベトナム語は入っていきやすい語学です。長らく中国に統治されていた歴史があるので、漢語由来の語が現代ベトナム語の7割を占めるとも言われます。表記文字はローマ字ですので、字面として親しみやすいですが、音読みでも日本語と共通している言葉が多いので、学びやすいはずです。たとえば、『哲学』は〈チェットホック〉と発音します。英語でフィロソフィーと表現するよりはるかに分かりやすい。『注意』にいたっては声調がありますが〈チューイー〉ですからほぼそのまま。典型的な孤立語(子音+母音で一語を構成)なので、フランス語やドイツ語のような語形変化がないことも、学びやすい要素です」

1万人から5万7000人へベトナム人留学生数は中国に急接近

日本からベトナムへという流れはもちろんあるが、ベトナムから日本へという流れはそれ以上かもしれない。ベトナムは世界でも有数の親日国で、日本に好感を持つ人が97~98%とのアンケート結果もある。ホーチミン市には生徒数6000名規模の日本語学校が存在し、毎年7月・12月には「日本語能力試験」が複数都市で実施される。受験者数は前年比数十%のペースで増えているとのことだ。
ベトナム人留学生も増えている。国全体が経済的に豊かになってきているため、かつては国費の奨学金を支給された、限られた人数の留学生しか来日していなかったが、現在では私費留学も珍しくない。日本でも、政府が掲げた「2020年・留学生30万人計画」によって、受け入れ体制の整備に強い追い風が吹くことが予想される。
「一橋大学は2016年にハノイ貿易大学と学生交流協定を結びました。一橋大学からは毎年2名の交換留学生がハノイに留学しています。私にとって何よりも嬉しいことです。そして、毎年20~25名のベトナム人留学生が、一橋大学で学んでいます。日本全体で見ると、ベトナム人留学生の数は5万7000人。数年前は1万人程度でしたから、一気に急増しています。留学生数1位は中国ですが、早晩追いつき、追い越すのではないでしょうか。そんな留学生たちに、逆引きとして『五味版』を活用してもらえたら嬉しいですね」

ベトナム語辞典を充実させることで学習者に辞典を選ぶ楽しみを提供したい

これまでベトナム語の辞書は少なく、テキスト本で補っていた。
『ベトナム語レッスン初級1、2』 五味政信/著 スリーエーネットワーク刊

今後『五味版』はどのように発展していくのだろうか。
「上級者向けに、改訂を進めていきたいと考えています。現在『五味版』には見出し語を約8000収録していますが、上級者にはやや足りないのです。1万語は入れたいところですね。実際に現地の雑誌や新聞をチェックしてみると、『五味版』では網羅されていない語が記事の中に10~20%ほどあります。この差を埋めることによって、上級者が現地の雑誌や新聞を読める状態にもっていく、それが当面の目標です。
ちなみにベトナム人などの外国人が受ける日本語能力試験では、最上級の『N1』で1万語を想定しています。1万語の日本語を理解していれば、日本の高等教育を受けられるということになります。その意味ではベトナム語も同じですね。
こうしてベトナム語辞典を充実させることで『三種の神器』の質がさらにバージョンアップすれば、学習者に対する責任を多少なりとも果たせることになるでしょう。いずれは他の著者による『○○版』もたくさん出て、学習者にとって辞典を選ぶ楽しみが増えると良いですね。『五味版』という名前には、実はそんな期待もこめています」

書籍版

電子辞書版

【五味版】学習者用ベトナム語辞典
五味政信/著武蔵野大学出版会刊定価:本体8000円+税2015年1月発行

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